ハ・ジウォン、ソル・ギョング主演映画【TSUNAMI-ツナミ-(해운대)】ユン・ジェギュン監督のインタビュー 2024.10.18

10月に突入していろんなことでバタバタしてて、なかなかブログを更新できなかったが、
無事に10月の大仕事を終えたので、少しずつブログを更新していきたいと思います。
10月のイベントといえば、お日さまと1023の記念日である1023Day!
そして10月上旬に釜山国際映画祭が開催されて、それに先立って、
ジウォンオンニ、ソル・ギョングさんが主演を務める映画TSUNAMI-ツナミ-(해운대)
9月26日から30日まで映画の殿堂で開かれる地質映画祭の招請作に選定され、久しぶりに海雲台で上映されました。
ユン・ジェギュン監督も参加され、さらにインタビューで撮影エピソードを明かしたので、
ここでご紹介したいと思います。


【連続企画1】釜山映像委員会アーカイブ叢書<釜山のシーン>#1、<海雲台><国際市場>ユン・ジェギュン監督インタビュー
[연속기획 1] 부산영상위원회 아카이브 총서 <부산의 장면들> #1, <해운대> <국제시장> 윤제균 감독 인터뷰
2024.10.18

よく知られているように、ユン・ジェギュン監督の故郷は釜山だ。 この事実を知らなくても、ユン・ジェギュン監督の映画を見て、彼の故郷を察することは難しくない。 彼が<海雲台><国際市場>など釜山の名所を題名に明記した2編の千万観客映画を作ったためだけではない。 ユン・ジェギュン監督の映画には、釜山で生まれ育ち、夢を育てた人だけが盛り込むことができる地域性がある。 特に、ユン・ジェギュン監督は、映画の背景が釜山でなければならない当為を関係者と観客に説得することに長けている。 なぜ災難ブロックバスターである「海雲台」に泥酔したマンシク(ソル・ギョング)が醜態を演ずるロッテ・ジャイアンツ(以下ロッテ)の試合場面があえて入らなければならないのか。 なぜ<国際市場>のヨンジャ(キム・ユンジン)と久しぶりに再会したドクス(ファン・ジョンミン)は、刺身一皿を太宗台海上絶壁の上の平床でもてなすべきなのか。 映画を見ればその答えが分かる。 津波が迫る数日前、暴風前夜だとしても、激動の韓国近現代史と家長の重さがしきりに波風に吹き荒れる人生の真ん中にあるとしても、なかなか自分の真心を現わさない二人の釜山男は「釜山の人なら皆理解する空間」で初めて自由を享受し、ようやく息をするためだ。 自らを「釜山出身監督」と公表することを躊躇しないユン・ジェギュン監督に会い、千万観客の呼応を得た二つの映画、<海雲台>と<国際市場>に関して尋ねた。 彼との対話を終えた後、二人の男性主人公を最後までヒーリングスポットに配置した後、喜んでいるユン・ジェギュン監督の表情をマンシクとドクスの顔に自然に重ねてみることができた。 インタビューテキストは標準語規定によって整理したが、ユン・ジェギュン監督の文章ごとにスミン東南方言のイントネーションをできるだけ添えて読めば、彼の釜山愛が一層生々しく伝えられるだろう。

– 釜山を背景にした2編の演出作<海雲台>と<国際市場>が封切り当時、全て千万観客を達成した。

= 多くの人が私が釜山で2本の映画を作ったと知っているが、実は3本だ。 「1番街の奇跡」(2007)も釜山でロケを行った。

– それでも<海雲台>から話さなければならない。 釜山の具体的な地名を背景にして書いた映画だからだ。

= 企画をしてから20年になろうとしている。 日付も正確に覚えている。2004年12月26日、インドネシア・スマトラ島付近の海底で津波大惨事が起きたのではないか。 その時、海雲台地域の母親宅でニュース速報を見たが、瞬間「休暇シーズンに100万人が集まる海雲台に津波が押し寄せるとどうなるのか?」という気がした。 その時からシナリオ開発を始め、2008年に本格的な撮影に突入した。

– 色々な面でその当時だったので着手できたプロジェクトだという気がする。 相変わらず海雲台地域が釜山市第1の観光地ではあるが、今は100万人の人波が夏休みシーズンの1日に集中するわけではないからだ。

= そうだ。その時、東海鏡浦台や西海大川海水浴場も盛業したが、それでも2ヶ所に海雲台ほど多くの人が集まることはなかった。 <海雲台>を撮影した2008年の海雲台地域は過去と現在が共存する町だった。 記憶するにはセンタムシティが造成されたばかりの時であり、エルシティと映画の殿堂が建てられる前だった。 それでセンタムシティ一帯には高層ビルが、少し離れただけでも海雲台市場と尾浦一帯には1970、80年代の素朴な情景がそのまま保存されていた。 大都市の摩天楼と村落の入り江が一堂に会したロケーションだった。 今、海雲台地域の都市発展の姿を見れば、<海雲台>の中の姿はまた多く消えていない。

『海雲台』は場所に関する映画だ

– 映画をもう一度見ると、津波が本格的に押し寄せる時点は後半50分だ。 映画の前半部、中盤部には海雲台に生活の基盤を築いて生きていく群像が主に描かれる。 そのためかエンディングクレジットの撮影協力名簿に「尾浦漁村界および尾浦住民の方々」が一番先に上がっている。

= <海雲台>を企画して一番難しかった点が100万人の中で物語の標的になる3カップルを選定することだった。 後日<隣人 -The Neighbors-><復讐のトリック>を演出したキム・フィ監督と共に<海雲台>のシナリオを書き、アトリエの壁面にポストイットで数多くの場合の数を作って貼った 剥がしを繰り返した。 それで海雲台地域が生活の基盤であるヨニ(ハ・ジウォン)とマンシク、海雲台に遊びに来たヒミ(カン・イェウォン)と彼女を愛する生え抜きのヒョンシク(イ・ミンギ)、離婚後釜山に出張に来たユジン(オム・ジョンファ)とフィ(パク・チュンフン)が誕生した。 これに「甘草」役としてトンチュン(キム・イングォン)を追加した。 釜山市民であるヨニとマンシクは、情感あふれる海雲台地域の断面が目立つ尾浦に、若いカップルであるヒミとヒョンシクは夜の海辺に、ホワイトカラーの外部人であるユジンとフィはヌリマルAPECハウスをはじめとする摩天楼に配置しておいた。 そのため、<海雲台>は場所に関する映画でもある。 実は企画段階で多くの人々から「この場所だけは除かなければならない。 「話の進行上、不必要な場面だ」というフィードバックを受けたシーンが一つある。 当ててみるか。

– シーライフ釜山アクアリウムシーケンスか。

= 違う。 ロッテが試合を行う社稷野球場での試合の様子だ。 第一に、社稷野球場が海雲台地域にないという理由であり、第二に災難映画に野球場面とは何かという理由だった。 しかし、釜山の人なら誰でも理解できる。 我々にはロッテに対する愛情がある。 私も小学校6年生の時から40年以上ロッテ創立会員だ。 それにしても今… いや、私が50代半ばなのに(2024年基準)優勝を2回しかできなかったなんて話にならない!(いくらか静的な)ロッテは愛憎の存在だ。 ロッテが勝ってこそ、その日は家族が平和だ。 釜山市民にとってロッテは野球団以上の意味で、無条件に「海雲台」に入らなければならなかった。 釜山出身の監督、釜山の情緒を理解する監督だけが完成できる場面だと思う。

– 映画の中でも競技場に行かなかった釜山市民たちも携帯電話DMBで競技中継をそれぞれ視聴する場面があえて登場する。 ロッテとサムスンライオンズの実際の試合中に撮影に入ったと。

= 実際の試合中、観客席の1ブロックを全て予約して撮影した場面だ。 我々が貸し切った200席を除けば、全て釜山市民と観衆だった。 社稷野球場近くの社稷高校に通っていたので、ロッテが敗れた時の雰囲気をよく知っている。 撮影を始めるとロッテが負けていた。 それで急いで俳優たちとスタッフをまず撤収させた。 ロッテファンに映画を撮ると言って俳優たちが入ってきているので、選手たちが試合に集中できなかったという非難、誤解を避けられないようだった。 スタッフと俳優たちはみんな、「なぜ撮影を中止するのか」と疑問を提起したが、私は「今日の撮影はやめるかもしれない」という決心までしたほどだ。 そのように無限に待機していたところ、突然歓声が聞こえるなど社稷野球場一帯が大騒ぎだった。 確認したところ、ロッテが三星を逆転させていた。 急いで俳優たちとスタッフを再投入して撮影を終えた。(笑)結局、観衆も一緒に完成した場面だ。

– 海雲台市場に津波が押し寄せ、阿鼻叫喚になる場面を撮った日、大変だったと聞いた。 監督の車まで水中に落とすほど決断が必要な日だったと。

= 「海雲台」を撮影しながら一番大変な日だった。 ハリウッドだったらその場面を撮るためにセットを作ったはずなのに、残念な気持ちが大きかった。 海雲台市場は商人たちの生業がかかった場所であるため、海雲台区庁の許可が必須だった。 結局、区庁の許諾を受けた日が2008年9月14日、秋夕当日の午前だった。 公休日であっても午後には商売を再開しなければならず、昼には市場商人たちも祭祀を行いに行くと、ちょうどその時間だけ市場全体が空くためだ。 原状復旧時間まで勘案して午前11時にすべての撮影を終えた後、正午に撤収するという覚悟で徹底的に準備した。 商人たちの夜の商売が終わった午前0時から午前7時まで海雲台市場に水槽を作り、午前7時から11時、4時間以内にすべての撮影を終えなければならなかった。 夕暮れ時に水を注ぎ始めるが、私たちが傾斜計算をしなかったことに気づいた。 水がまんべんなく満たされていなければならないのに傾斜を考慮せずに水を注いだので、片方だけ水が満たされた。 それで急いで私を含むすべての製作陣が海雲台の砂浜に駆けつけ、砂を汲み取って傾斜を補完するための堤防を築いた。 砂袋を熱心に作っているが、それを見た釜山住民が砂を密搬出する人がいるとし、警察に通報して撮影場に出動した警察に釈明もしなければならなかった。 今になって笑って話しているが、その時はその日に予定された撮影を終えられなければシーン全体が飛んでいく状況であり深刻だった。 製作費もないので当然絵になるような、カメラの前に引っかかる自動車も数台なかった。 それでまず私の車をひっくり返したのだ。 結局、午前9時から11時、2時間以内に場面を完成させた。 その次に大変だった場面が広安大橋のシーンだ。

– 広安大橋こそ、釜山で交通量が最も多いところではないか。 協力が行われたのが不思議だ。 海上橋梁であるうえ、直線距離も長いため、カメラと照明の設置が簡単ではない

= 釜山市でも、「広安大橋だけは絶対撮影が不可能だ」と謝罪した。 海雲台を背景にした映画に釜山のランドマークである広安大橋が出てこないわけにもいかないので、CG作業などを考慮していたところ、釜山市から制限的な撮影許可が下りた。 世界1千万人歩き大会の折り返し点が広安大橋だが、イベント進行のために市次元で広安大橋を半日の間に一部統制するという理由からだった。 2日間にわたって片側2車線と反対側2車線に分けて撮影した

– その場面でトンチュンはなぜタバコに火をつけるのか。 ジャンル的サスペンスにつながる必要な場面だが、そのために事がさらに大きくなる。

= 他の監督が演出していたら、絶対に入らなかった場面だ。 「(笑い)私がコメディ映画監督としてのキャリアをスタートさせた。 その時は、映画に面白いシーンを必ず入れたかった。 災難映画だけど、暗い場面だけ含めるのは望んでいなかったから。 新しいコミカルなアイデアが浮かんだら、何とか入れようとした。 今思えば、ある場面は欲張りすぎた。

– 元々のシナリオでは地下鉄の駅舎が巻き込まれる場面も構想していたと。 釜山地下鉄もまた釜山市の風景のように歴史のあちこちに1980年代の遺物が残っているなど、昔の姿を長い間保存しておくのではないか。

= 選択と集中だ。 率直に言って、予算問題が大きかった。 地下鉄の駅に津波が押し寄せる場面こそ、セットを作らなければならない。 それでは全部お金ではないか。 当時、韓国には水槽セットもなかったため、室内空間に水が溜まるようにする方法を知らなかった。 後でサンフランシスコに特撮に行って初めてノウハウを知った。

– 封切り後15年が経った2024年に<海雲台>を観覧する経験は色々と違うほかはない。 何より2014年と2022年、韓国社会で発生した大規模惨事を目撃した以後、<海雲台>の合同告別式の場面を再び見ると、以前とは違う感想を感じざるを得ない。 「海雲台」がどのように年を取ってほしいのか。

= その間に起こった数多くの惨事を考えると、心が痛む。 起きてはならない事故であり、二度と起きてはならない事故だ。 映画の企画当時、関係者たちから受けた心配が災難の始まりの時点だった。 ハリウッドの災難映画は序盤から災害が押し寄せてスペクタクルを完成し、一人の英雄が人類を救う感動があるが、「海雲台」は映画開始後、しばらく経ってこそ津波が押し寄せ、単一の英雄がいないという理由だった。 映画が退屈になる可能性もあるという指摘が続いたが、私の立場は強固だった。 津波は映画のテーマを伝える手段であり、目的ではない。 「海雲台」は人々の縁に関する話だ。 縁が集まって運命を成した人々が不可抗力である災難の中で、お互いを許す物語を作るのが目的だった。 一寸先も知らない人の人生で互いに殺し合い、生きていくことが津波のような自然災害の前で何を意味するのだろうか。 その地点に感応した韓国の観客が1000万というスコアを達成してくれたと信じている。 死にそうになったマンシクを生かしたのは結局、彼があれほど憎んでいた叔父(ソン・ジェホ)であり、ヒョンシクは「霞のために目の敵のようだった男」の代わりに「犠牲」という決断を下す。 人生のアイロニーだ。

<国際市場>に釜山のすべての場所を入れたかった

– 『国際市場』も『海雲台』に続き、タイトルに釜山の象徴的な場所名を書いた。

= 本当に多くの人が映画のタイトルに反対した。 「国際市場」という題名を聞けば70、80%の関係者たちが「インターナショナルマーケット」ならば、ややもすると映画が武器密売業者のスリラーに映るのではないかと憂慮した。 <海雲台>の時も<海雲台>の代わりに<津波である釜山><ビッグウェーブ>などにタイトルを変えようという世論が多数だった。 しかし、変えることはできなかった。 本来、釜山の中心街であり繁華街は国際市場が位置した南浦洞、光復洞一帯だった。 ソウルで言えば明洞に当たる地域だ。 海雲台が今の発展に至るまでは、釜山国際映画祭の開幕が大きな役割を果たし、今は釜山と言えば海雲台を多く訪れるが、20世紀までは釜山と言えば南浦洞、光復洞、太宗台を訪れる旅行客がはるかに多かった。 いつの間にか国際市場一帯が旧都心になったのが胸が痛かった。 幼い頃からよく訪れた町なので、愛情と思い出が格別だ。 中学生時代、アトピーがあって治療のために草梁洞に位置した病院に着実に通った。 いつも母親と一緒に病院で診療をした後、国際市場の方を一周して家に帰ってくるのが私のルーティンだった。 国際市場は韓国の近現代史でも意味深い場所だ。 韓国戦争当時、避難民が洛東江まで押し出された時、国際市場に皆集まった。 多くの避難民が国際市場で再び生活の基盤を再建しながら暮らしたが、思ったより人々がこの歴史を知らなかった。 全国民がこの歴史を知ってほしいという気持ちも大きかった。

– <国際市場>で釜山方言を使う方法も面白い。 ドクスの母親(チャン・ヨンナム)とコッブン(ラ・ミラン)は人生の半分以上を釜山で暮らしたが、最後まで咸鏡道(ハムギョンド)方言を使う反面、ドクスは咸鏡道方言を使い、ある瞬間から釜山方言をずっと使う。 結婚前まではソウルの言葉を使っていたヨンジャも同じだ。

= どうしても若くて若い時に引っ越してきた人たちは方言をすぐ習得するが、年を取って降りてきた人たちは言葉遣いがすぐに変わることはない。 ヨンジャは20代に来ておばあさんになるまで数十年を生き、国際市場で商売もしたのだから、釜山の方言をすぐ覚えたはずだ。 考証による設定である。

– 「海雲台」と「国際市場」に最も多く登場する台詞は「ありがとう」だ。 この台詞は全て中年の男性主人公、マンシクとドクスによって発話される。 それで二つの映画を「釜山男」に対する探求として見ても面白い。 一例として、二人の主人公は、自分の心を直接的に表現することが苦手で、遠回りする言葉を選ぶ。 相手の女性から「なぜ告白しないのか」と叱られる場面も繰り返される。

= 今、釜山の若い男たちは少ないはずだが、慶尚道地域には概して異性に自分の心を表わすことにぎこちない男たちが本当に多い。 ところが、今まで私の映画に出てきた男性主人公たちは、背景がソウルであっても、一様に恋愛に慣れている。 『マイ・ボス マイ・ヒーロー』のドゥシク(チョン・ジュノ)はユンジュ(オ・スンウン)に心を告白できず、『セックス イズ ゼロ』のウンシク(イム・チャンジョン)もまた行動だけ先んじたやつだった。 実は私も今の妻と大学1年生の時、キャンパスカップルで出会った。 恋愛の経験が多くない私の自我が自然に私の映画の中の男たちに反映されたと見る。

– <国際市場>は国旗降下式の場面までも龍頭山公園を背景に撮るなど、釜山のすべてのランドマークを画面に収めなければならないという野心が目立つ。 釜山の風景を記録物としてアーカイブしようとする熱意も感じられる。

= 釜山のあらゆる所を盛り込みたかった。 国際市場と多少距離が離れた南富民洞まで映画に盛り込んだ。 徳水の家族が初めて釜山に降りてきて場所を決めた南富民洞は過去のタルドンネだった。 「1番街の奇跡」を撮った時から、私の映画のロケで南富民洞を訪れた。 今は甘川文化村を含め、地域の固有性を保存し、新しい姿を見せている。 映画を通じて釜山の姿を保存することも重要だ。 草場洞に位置した徳寿宮の屋上から釜山の全景が見下ろせる場面は、今撮ればまた別の絵が出てくるだろう。 その時はロッテデパートを建てる前だった。

– <国際市場>には映画に向けた監督の愛が溶け込んでいる。 南浦洞に位置するロッテシネマのデヨン(旧デヨンシネマ)とBIFF広場が登場し、ダルグ(オ・ダルス)がリール映写機を回すアルバイトをする場面もあえて挿入されている。

= 入らなくてもいいのに入った場面の一つが上映館内でタバコを吸う場面だ。 そのように映画を通じて、今は存在しないあの時代の風習を描こうと努めた。 私が幼い頃はマルチプレックスがどこにあるのか。 その時、釜山で封切り映画を見るためには、無条件南浦洞と光復洞に行かなければならなかった。 そこで<E.T.>(1982)をはじめとする多くの映画を見た。

– 影島大橋を活用した場面もシナリオ段階で念頭に置いたと。

= 韓国戦争当時、北朝鮮から降りてきた避難民たちが国際市場に定着した後、離散家族を探す張り紙を一様に影島大橋の下に貼っておいた。 賢人の歌「強くなれクムスン」の歌詞「影島橋の欄干の上に三日月だけが寂しく現れた」に出てくるようにだ。 釜山で占い師たちの露店が最も多く敷かれたところも影島大橋の下だ。 離散家族を探す張り紙を貼った後、実際に別れた家族に会えるのか、藁にもすがる思いで橋の下で占いをしたのだ。 映画の後半部に1983年の『離散家族を探します』のシーンがあるので省略した。

誰もがロケ地として好む釜山が答えだ

– 釜山に対する監督の固い愛情以外に、映画撮影地として釜山が持つ利点が大きいと思うか。

= メリットが100%だ。 まず、大韓民国の俳優やスタッフなど、誰に聞いても一番映画を撮りに行きたい都市を聞くと、「釜山」と言う。 「皆ソウルまたは首都圏に住んでいるのに、なぜ遠い釜山を望むのか」と疑問に思うかもしれない。 まず映画撮影は明らかな「仕事」だが、それでも釜山に撮影しに行くのは皆に休暇に行くような気分を感じさせる。 ソウルとは明らかに違う風景をプレゼントするという点でそうだ。 海外の映画関係者が最も訪問したがる国際映画祭で、釜山国際映画祭を語って久しい。 本当だ。 私が全部聞いてみた。 釜山という地域が持つ信頼度、そしてその信頼度から始まった選好度が相当だ。 また、釜山のように韓国近現代史の過去、現在、近未来の風光が共存する都市が多くない。 華やかなスカイラインと素朴な田舎の風景が一つにあり、一つの都市で2020年代の感じと1970年代の感じを全て具現することができる。 費用的なメリットも大きい。 映画、シリーズ撮影が少なくとも一週間は一セットで継続して行われるが、ソウル近郊は地価が高くならざるを得ず、敷地も空いているところがほとんどない状況だ。 この時、釜山が良い解答になる場合を多く見た。

– 個人的な疑問がある。 釜山でロケを行うからといって、いつも活魚の刺身、豚クッパなどの特食だけを食べるわけにはいかない。制作陣と出演陣の両方を満足させる釜山ロケ運営案を聞かせてくれれば…。

= あまりにも海雲台の近くにおいしい店が多く、人々が釜山撮影を好む。 毎回珍味だけを食べるのは難しいので、ご飯屋もよく訪れる。 映画をやっている人なら誰でも知っているような食堂が海雲台に2ヵ所ある。 帳簿を置いて食事代だけ記入できる所だ。 家庭料理のようにご飯とおかずが出てくるが、二つの食堂に対する選好度が非常に高い。 まだ二つの食堂があるかどうかは分からない。 本当においしいね。(笑)

– <海雲台><国際市場>ともに釜山がもう一人の主人公である映画だった。 釜山をよく知らないスタッフたちに、特定の場所でその場面を必ず撮らなければならない理由は、どうやって説得するのか。

= 説得よりは説明に近い。 ソウルだけでもピマッコルの持つ意味をソウルの地元住民たちは明確に知っている。 釜山で生まれ育った人として、外地の人たちに各場所が持つ意味を説明すれば、ほとんどが納得する。

– 「外地人」という表現が面白い。 釜山市民によく聞く表現だが、他の地域では聞いたことがないようだ。

= ところが、釜山の人々は意外と排他的ではない。 釜山が港町なので、昔から日本を皮切りにロシアなど海外船舶がよく出入りしていた。 おかげで各国の多様な文化が早く吸収され、市民たちもまた文化的多様性の中で調和して生きていくことに非常に慣れている。

– 多くの観客がユン・ジェギュン監督と言えば、釜山を自動的に連想する。 ユン・ジェギュン監督と言えば、釜山出身の監督、釜山を背景にした映画を多数演出した監督という意見が常に一緒についてくるからだ。 韓国映画の歴史を探ってみても、大衆映画を作る監督の中で、ここまで地域性をずっと探求してきた場合が、監督以外にはほとんどないという点で特別だ。

= 釜山で一生映画を撮らないかもしれない。 今すぐ『国際市場』の次に出た『英雄』にしても、釜山とは関係のない映画だった。 しかし、生まれ育った故郷に対して感じる自負心、所属感は人としてより大きな夢を見るのに一役買っている。 生まれたところでなくても、誰もが心の中には母親の懐のような故郷がある。 私が安定感と愛情を感じる場所があるが、その場所を代表するストーリーテラーの一人になることほど大きな光栄はない。 もう一度釜山を背景にした映画を撮りたいという気持ちはいつもある。 ただ重要なのは企画と台本だろう。 何をすべきか、もう悩む番だ。

元記事:こちら


[連続企画1]釜山映像委員会アーカイブ叢書<釜山の場面>#1、「釜山の息子ユン・ジェギュン」、<海雲台>製作記
グルシネ21取材チーム2024-10-18
[연속기획 1] 부산영상위원회 아카이브 총서 <부산의 장면들> #1, ‘부산의 아들 윤제균’, <해운대> 제작기
글 씨네21 취재팀 2024-10-18
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100万人が避暑を楽しむために集まった海雲台(ヘウンデ)海水浴場に津波が押し寄せる。 一生釜山に定着してきたマンシク(ソル・ギョング扮)とヨニ(ハ・ジウォン扮)、釜山生まれの海上救助隊員のヒョンシク(イ・ミンギ扮)とソウルから逃げてきた二浪生のヨミ(カン・イェウォン扮)、津波の危険性を警告するフィ(パク・チュンフン扮)と、イベントの準備に余念がない広告代理店の理事のユジン(オム・ジョンファ扮)。 6人の男女は避けられない災難の前で生存のための熾烈な死闘を繰り広げる。 彼らが生き残ろうとする理由はただ一つだ。 ずれた縁を正すために。 ユン・ジェギュン監督が「縁の映画」と整理したことがある<海雲台>の製作記を伝える。

初めて統制された広安大橋

釜山の海の象徴であり、国内最大の海上橋梁である広安大橋は海雲台海水浴場を背景にする映画に登場せざるを得ない場所だ。 釜山映像委員会と<海雲台>製作陣は広安大橋での撮影のためにすべての関連機関と広安大橋撮影協力および交通全面統制を協議した。 釜山市内の通行量1位の橋脚らしく、最初はすべての団体から不可能だという答えを聞いたが、「海雲台」チームはあきらめなかった。 以後<海雲台>チームは「世界1千万人歩き大会」のために広安大橋の一部が統制されるという便りを入手し、イベント当日に広安大橋の一部区間で撮影を進行することができた。(その険しい撮影過程は続くユン・ジェギュン監督のインタビューで確認できる。)釜山映像委員会ロケーション支援歴史以来、映画撮影のために広安大橋を全面統制したのも<海雲台>が初めてだった。

津波から脱出せよ


マンシクとヨニ、そして数多くの人波が津波から脱出する場面は海雲台市場で撮影した。 もう一度強調すると、セットではなく実際の海雲台市場で撮影した。 広安大橋と同様に海雲台市場もまた数百の商店街が1年中商売をし、市内バスとマウルバス、そして乗用車まで365日中出入りする複雑な場所だ。 <海雲台>チームは市場の商人たちが祭祀を行うために一斉に席を外した秋夕名節当日、縦100m、横10m、高さ1m程度の移動式プールを市場に設置した後、6時間で撮影を終えた。 <海雲台>のCG担当者であるハンス・ウルリッヒは<パーフェクトストーム><ディープインパクト><TOMORROW>などハリウッド災難映画のCGを主に担当してきた。 視覚効果に骨が太いそれさえも津波の場面が全面実写で撮影されたという類例のないことに驚きを禁じえなかったという。 道路統制とバス迂回、1千トン余りを越える水投与のために釜山消防本部、海雲台警察署、海雲台区庁公共交通課が積極的に協力して作った場面でもある。 海雲台市場の電柱で、マンシクが流れに流されるヨニを救助する場面は、南川洞の廃水霊場で撮影した。


釜山そのもの


<海雲台>のエンディングクレジットの撮影協力名簿には「尾浦漁村界および尾浦住民の方々」が一番上の列に上がっている。 ヨニが無許可の刺身屋を運営する尾浦一帯は、釜山出身のユン・ジェギュン監督さえ映画のために初めて訪問した場所だ。 ユン・ジェギュン監督は「尾浦港防波堤にある屋台を見るやいなや『あ、ここだ』と心を固めた」とし、「一ヶ月以上三顧の礼をしながらやっと撮影許可を受け」あ、そこをヨニの刺身屋にした。 「海雲台」の社稷野球場の場面には編集された瞬間がある。 ある観衆が受け取ったファウルボールをヨニとスンヒョン(チョン・ボグン)が奪う場面であり、これは釜山の特殊な観衆文化である「アジュラ」(ファウルボールを子供に与えろの東南方言)と関連がある。 ところが撮影当日、実際ロッテジャイアンツとサムスンライオンズの試合途中「PDジュラ」が起きた。 「海雲台」のイ・ジスンPDが飛んでくるファウルボールを客席から手にし、製作陣と現場にいた観衆の羨望を買ったのだ。 一方、ユン・ジェギュン監督は釜山の外地人であるユジンとフィが主に泊まる空間をスカイラインが華麗なビル密集地域に配置しておいた。 このうち二人がずっとぶつかる建物はヌリマルAPECハウスだ。 撮影以後、ヌリマルAPECハウス一帯には「映画の森」が造成され、ユン・ジェギュン監督はここにケヤキ1本と遠い木3本を植樹した。


元記事:こちら


映画【TSUNAMI -ツナミ-】は2009年7月22日に韓国で公開され、今年で公開15周年を迎えました。
『TSUNAMI -ツナミ-』は昔、私が初めて見たジウォンオンニの作品であり、
15周年という節目に再び海雲台で上映され、ユン・ジェギュン監督が語るビハインドストーリーも聞きたくて、
本当は見に行きたかった!日程が合わなくて見に行けなくて残念だったが、
ユン監督のインタビューと制作記が上がってきて本当に嬉しかった。

インタビューに掲載されているユン監督の写真ですが、
壁一面にユン監督が手掛けた作品のポスターが飾られていて、
よく見てみると、『セックス イズ ゼロ』、『1番街の奇跡』、『TSUNAMI -ツナミ-』、
『第7鉱区』、『担保』は全部ジウォンオンニが主演を務めた作品で、
改めてこうやって見てると、お日さまは本当にユン監督の作品にたくさん出演されたな〜としみじみ思います。

余談ですが、5月に開催されたお日さまの2回目の個展にユン監督もお祝いに駆けつけました。
二人が談笑している姿を見ると、本当に感無量でした。
映画『担保』もユン監督が直接お日さまに連絡して、オファーしたので、
おかげで映画館の大きなスクリーンでジウォンオンニの演技を見ることができて、
1023としてやはり嬉しいです。いつかまた二人がタッグを組んで、素敵な映画を作ってくれたら嬉しいな〜

投稿者: sunshine1023

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